昭和五十年十月十六日御理解 第十六節    「無常の風は時を嫌わぬと言うが、金光大神の道は無常の風が時を嫌うぞ」



金光大神の道は無常の風が時を嫌うとまで言われる道とはどう言う道かと言うと、金光大神取り次ぎの道と言う、例えばこの十九節に金光大神は形が無いのだから、来て呉と言う処へ言ってやると仰られる、所謂自由無碍な働きを示して下さると言う事は、金光大神を一心に称えるところに金光大神が現れて下さる、そしておかげを下さるのではなくてお取り次ぎをして下さるのです。
金光大神が病気を直したり、死人をよみがえらせたり、言うなら無常の風に時を嫌わすようなと言う大神徳を受けておられても、金光大神がそれをなされる事はできぬ、金光大神はどこまでもお取り次ぎをして下さるのであり、おかげを下さるのは天地金の神様である、だからその取り次ぎの道、金光大神の道はと仰られる取り次ぎの道。
そこでなら只お願いしますと言う例えばお結界でお取り次ぎを頂くと言う事がそう言う取り次ぎの働きと言うものが、十全に出来る、無常の風に時を嫌わすような、働きが出ると言う事ではないと思う、そこに金光大神の道は仰せられる所謂、お取り次ぎを頂きお取り次ぎを願うと言う、願う頂くと言う、そこがね、おかげを頂くお取り次ぎを願う、そしてお取り次ぎを頂くと言う事、金光大神の道は無常の風を嫌う、お取り次ぎ頂いて本当のお取り次ぎが出来られた時に、お取り次ぎを本当に願いお取り次ぎを本当に頂く事が出来た時に、無常の風に時を嫌わすような、おかげが頂けるのです。
言うなら助からん者が助かり、開けん筈のおかげが開ける、と言う程しの働きそう言う働きをです、例えば金光大神は形がのうなったら、来て呉と言う処に行ってやる、来て呉と言う処に来て下さってそしてそこに、そう言うお徳、お取り次ぎの働きをして下さると言う事なんです。
金光大神が病気を直しなさるのじゃない、金光大神が道を開きなさるのじゃない、金光大神ではなくて、天地金乃神様である、同時に又お取り次ぎを願う氏子なんです、おかげは神から出るとは思うな、氏子の心から出ると仰る、実に微妙なところですよね、金光大神のお取り次ぎの働きによって、無常の風に時を嫌わすようなおかげが受けられる。
お取り次ぎを頂くと言う頂く者の側の信一つで、無常の風に、が時を嫌うと言うような、開けん筈のものが開ける、助からん筈の者が助かると言う働きになって来る。
今日は私は金光大神の道はと仰られる、金光大神の道と言うところに、その力を入れてお話をしておる訳です、大事なところです。
昨日前夜祭の終わりました後、富久信会、あれから丁度十二時一寸過ぎ迄位、おかげを頂きました、中で熊本の上野さんが発表しておられました、そして私は改めて思わせていただいた、又私は金光大神は形がなかったら、来てくれと言うところに行ってやるとおうせられるのは、こう言う頂き方に金光大神の取り次ぎの働きが始まるんだと、来てくださるんだと言う風に改めて思わせて頂きました。と言うのはこんどの御本部参拝は丁度合楽と一緒でした、十三日、皆さんあそこで御挨拶に見えましたですね、中に上野さん達も御夫婦でお参りなっとられた、実を言うと奥さんがもうお産間近と言う時であった。
そこで親先生のお取り次ぎを頂かれた、こんどは遠慮しとったが良かろうと、もしもの事があってはならんから今日は御無礼しとったが良かろうと、言う事であった。私は無常の風が時を嫌うと言うような働きはね、そこから先だと思うです。
ああ親先生が遠慮しとけと仰ったから遠慮しとられたらです、と言うような信心には私は言うならば、出来ん筈のものが出来ると言ったような、おかげにはなってこんと思う、今日は何と言うですか、助からん者が助かると言う程しの事をここでは言うておられるですよね、無常の風が吹いてきよる、それを向こうにおしやる程しの働きと言うのですからね だからお取り次ぎを頂いて日々お商売のおかげを頂いておる、お取り次ぎを頂いて日々健康なおかげを頂いておる、いや一寸風邪を引いたお取り次ぎを頂いておかげを頂いた、一寸お腹が痛んだけれど、お取り次ぎを頂いておかげを頂いたと言う程度の事ではなくてです、もう助からん者が助かると言う程しのと言う事ですね。
ここのところは無常の風邪に時を嫌わずと仰るのですから、言うなら普通で言うなら運命的に言うたら、もう駄目だとかもう開けないと言う事なんです、そこを金光大神の道は開けん筈のところが開けるぞと言う、だからそう言うおかげを頂かねばならない時の、言うならばお取り次ぎの頂き方、こちらの信心姿勢を私共は自分に問うて見なければいけないと、これじゃおかげ頂けん筈だと言うものがわかる。
上野さんの場合はそれから先を見事に、御夫婦で頂いとられると言う感じがするのです、親先生にお取り次ぎ頂いたら、今度は遠慮しとけと言われたぞと言うてかえられた、ところが奥さんが言われるのには、いえこんどはどうでもお礼参拝がしたい、もうそして汽車の中で生まれてもかまわん、お父さんもう一遍お取り次ぎ頂いて下さいと。それで又翌日お取り次ぎ頂かれたら、もう一も二もなしに、はいお願いしましょうと言う事だったと言う。もうお取り次ぎを頂く者のね、精神一つで取り次ぐ者の心がビシャーッと決まるです どけな風でしょうかと言うて相談持ちかけるような風じゃ、駄目です、もうこちらが腹を決めてからの、お取り次ぎを願いお取り次ぎを頂くと言う事です。
私はそれを聞かせて頂きまして上野さんの信心が此処にあるなあと思いました。
そして今日の十六節を頂いてです、金光大神取り次ぎの道とは、しかも無常の風に時を嫌わずと言う程しの働きと言うものは、そう言う姿勢の上に現われるんだと言う事です、親先生がこんどは御遠慮しとくがよかろうと言はっしやったけん、途中でうまれどんするならどんこんでけんから、神様の顔に泥を塗るようなことがあっちやならんから、皆に又迷惑を掛けるような事があっちゃならんから、こんどは御無礼をしとこう、それで結構おかげは頂くでしょうね、けれどもね無常の風に、時を嫌わす程の働きにはなって来ないと言う事、私は富永先生は偉いと思うた。
もう本当に取り次ぎ者として素晴らしいと思うた、お取り次ぎを願われた初めのときには、こんどは遠慮しといたが良かろうと言うておられる、そこに言うならば、信者の心を確かめておられる、言うならポンと蹴っておられる、それでも尚且つ、止むに止まれん、こんどの秋の御大祭は、どうでもこれ程しのおかげを頂いておるのですから、どんな事があってもやはりお礼参拝がしたいと言うておられる。
それは途中で生まれても構わんと言う信心姿勢がもうそこに打ち出されておるのです、
言うならばままよと言う心でどうでもこうでもお礼参拝がしたいと言う心になられた時に おかげで無事いつもよりも本当にそこにですお取り次ぎを願い、そしてお取り次ぎを頂くと言うところのね、信心、なる程金光大神は無くなったら、来て呉と言うところに来て下さるが、金光大神がここに現れてお取り次ぎをして下さると言う事は助けて下さると言う事ではない、助けて下さるのは天地金乃神様、否もう一つ言うなら助けられるのはおかげはね、氏子の心から出るんだと四神様が喝破しておられるです。
同じですおかげは神から出ると思うな、氏子の心から氏子の心からじゃと仰る、金光大神が助けなさるのじゃない、金光大神が取り次ぎをなさって下さる、そしておかげを下さるのが天地金乃神様だとその天地金乃神様の働きをです、充二分に頂こうと思えば、十全にするためには無常の風がそこまで吹いて来とるのを、向こうに押し返す程しの働きは氏子の心からと言う事になるのです、私はこの辺のところをしっかり一つ稽古せにゃいかんと思うです。
止むに止まれん真心一心がだからお取り次ぎを言わば簡単にと言うわけはないでしょうけれども、御本部参拝のお届けをなさった、お取り次ぎを頂かれたお取り次ぎを頂いたら、親先生がこんどは遠慮しとくが良かろうと仰ったから、御無礼いたしましたとそれてそれだけのおかげは受けられる、それに富永先生としてはもう一つ向こうの信心を確かめておられると言う感じ、そこを言うならばまげてお聞き届けを頂きたい、所謂真からのお取り次ぎを願っておられる、そしてお取り次ぎを頂いておられる。
それはもっと難しい事になるかわかりません、いうならば生死に関わると言った、言うならば無常の風が吹いて来るとに向うに吹きやってもらう程しの、助からん者を助かる程しのと言うときには、ならそれをもっと言うならば度胸もいる事だとこう思います、けどそう言う時にです、よし途中で生まれてもかんまん、汽車の中でうまれてもかんまん、よし死んでもままよと言うような心の状態で、お取り次ぎを願うところに初めて無常の風が時を嫌わず様な程のおかげが立ち現れると思います。どうぞ。